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 昭和54年 3月23日  朝の御理解


 御理解  第37節  『生きて居る間は修行中じゃ丁度学者が年をとっても眼鏡をかけて本を
 読むようなものであろうぞい』


 せっかく修行させて頂くのですから、働き損のくたびれ儲け的な修行ではつまらんわけです。させて頂く修行が、いよいよお徳につながり、おかげにつながり、その修行が勉強しただけ修行しただけ自分の血に肉になっていく、というものでなければならんのです。
 昨夜は例によっておそくまで、きょうの霊祭りの私共の心構え、というよりも、今日のお祭りを受けられる霊様達の心構え、というものをつくって差し上げる。いわば、御祈念。ま、今年はそいうふうに変ってきた感じです。霊様がせっかくの、それこそ霊祭りは合楽理念をもってする外はない、のですからそれを受けられる霊様達も、また合楽理念をもって、それを受けられる。それを受ける姿勢、構え、というものは、どういうものでなければならないか。 
 今度また合楽に新たな関係をもたれる霊達が沢山ございます。神様の方へお礼お届けをさして貰って霊様の方へ移らせて頂いて、そういう合楽理念をもってさせて頂く、また合楽理念をもって受ける外はない、といったような御祈念の中に頂きました事は。
 テレビで大隈カバン店の宣伝、コマーシャルがあってますよね。可愛らしいウサギさんのあれを着てそのピョンピョン飛んでいる。ランドセルをからって、ね。飛んでおるところの、ね。それこそ 
  『白ウサギお前のお耳はなぜ長い、母さん言う事聞かないで、お耳を引かれて長いのか』
と言うような、まあ、童謡ですよね。ウサギの耳が、こう片一方の方だけおれているです、ね。あれは可愛らしい。言うなら耳をふさいでおる、という感じです、ね。母さんということは親という事でしょう。親という事は神様と言うてもいいわけす、ね。大隈という事は大「く」という事は苦労の“苦”と頂かなきゃならない。「ま」という事は魔性の“魔”ね。魔道の魔、ね。
 言うならば、大変な苦労、霊ながらに苦労しておる霊、ね。魔道、邪道じゃなかろうか、というような道をまちがえておる霊。そういう霊達がです。言うならば明日は合楽学園への入学式だ、というような喜びを見せたんだ、と私は思うのです、ね。ま、それをわかりやすく言うならば、なら地極にでも落ちてるような霊様でもです。貴族の者が真心。それこそ合楽理念をもって先祖の霊達にお取次を頂いてお願いをする。そういう苦の道、魔の道と言うような中にある霊様達がです、ね。新な、それこそ助かりの完璧と言われる合楽理念に基いて助かる事が出きる、言うならば合楽学園の入学式だ、と。
いよいよ合楽理念に基く和賀心学なるものを勉強する霊ながらに勉強する。
そこから霊の助かりが始まるんだ、ということでございます。大変な事ですねぇ。私共が助かりたい、助かりたいと言うてもね。やっぱり私共の根であるところの先祖の霊が助からなきゃだめです、ね。
それに、なら完璧な助かりと言われる合楽理念を私共がいつも行じ、〇〇は合楽理念をもってする外はない、〇〇は合楽理念をもってする外はない、と例えばお百姓さんなら百姓は合楽理念、商売人なら商売は、とこう言うようにです、ね。霊祭りは合楽理念をもってするのが一番の有難いお祭りが出来るんだ、と。言うならば神様も喜んで下さり霊様も喜び助かって下さるお祭りが出来るんだ、と言うことです、ね。合楽理念をもってすると、んなら、どういうような助かりになるか、と
 昨日、半期半期で、春と秋に霊祭りがございます、ね。春の霊祭り、だからこの秋から春にかけて半年間の間に新しい霊様、ね。お国替えになられた合楽にかかわりのある霊様達をまず、ずっと昨日拾い上げて見ました。そして最後に網さんのところの奥さんの霊様はどんなになりましょうか、と言うて尋ねますから、そうなあ、いくら何でも、ね。大体は五十日間という、いわゆるあら霊としての修行、ま仏教で言うなら生仏さん、とこういう。そういう修行を置いて、いわば霊の列に加わる。霊としての取りあつかいを受けられる。また自分も五十日間の間に悟りが開ける。自分はもう人間の世界でなくて霊の世界におるんだな、ということがよくわかる。そこんところが、あらゆる宗教がやっぱ仏教も四十九日と言うでしょう、ね。
 神道、ご神道あたりでもやっぱり五十日祭、十日十日のお祭り、というふうに申しますように、確かに私は永年、霊様を扱ってまいりまして、そういうものをやっぱり感じました。だから、とりわけ合楽におかげ頂いてる方達は助かりが早いから二十日、三十日であっても、も次の霊祭りまでもおくらずに、霊のお祭りが受けられるように、いつもいたしておりましたけれども。今度の網さんの場合なんかは、も丁度中日の日が告別式という位に、もうそれこそ言うならば生々しい新霊様ですから、そりゃ、どんなもんかなあ、と言うて私は4時の御祈念に入りました。そして4時の御祈念でその事とをお願いさして頂きます事が、もう、とても優雅な、と言うのですかね『優雅な置時計』を頂いてね。その置時計がヒョッと止まったところを頂いたんです。そしたら次の瞬間にはまた動き出した、ね。
 私共はこの世で、いよいよ言うならば生神を目指す、ね。金光教の信者、信奉者、皆が生神を目指すのです、ね。その目指し、というものが合楽理念に基づいての生神への精進なんです。これはもう絶対、生神をめざすと言うて様々な修行をする、ね。水かかったり、火の行、水の行を例えば、するといたいましょうか。そういうことで言うなら生神の道は開けてこない、ということが、ま、合楽では、はっきりわかったし、またそう言っている。表行全廃と言うことがである、ね。ですから、合楽理念に基づいて私共が、今日のご理解でいうと一生が修行じゃ、とおっしゃるなら、ね。合楽理念に基づいた修行でなからなければいけない、ということなんです、ね、言うならばお互い合楽学園に入園しているようなものなんだ。そこでなら合楽では何をもってその勉強とするか、と言うと、いうならば“和賀心学”なんです、ね。その和賀心学を、ま、ある場合には微に入り細にわたって、ある場合には大きく広く、ね。説かれておるわけです、ね。
 その和賀心学を合楽理念に基づいて勉強さしてもらう。私は昨夜頂いた、ね。新たに今度言うならば、入園する新たな合楽に縁を頂かれた霊様がそれこそ苦の道、魔の道といったような中にあった霊でもです、ね。それこそランドセルをかろうて、ね。入学、小学校の入学を楽しんだり喜んでまっておるように、そういう状態の中に、いよいよ合楽学、いや和賀心学、それを合楽理念に基づいてこれからも霊の世界で霊様がそういう勉強をすることでしょう、ね。
 そこで、んなら今日の御理解で言う、一生が修行じゃ学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろう、とおっしゃるように、私共もいよいよもって言うなら合楽理念の勉強をです。限りなく、ね。させて頂く、だから、そこでですよ。言うなら私共が、私共の息の根が止まった、ね。そしてそこから先は霊の世界、という場合にです、ね。そういう私は勉強が積まれていなかった、言うならこの世あの世を通して、も、この世では仕方のないけん、あの世で極楽に行こう、てんなんてん考える者ならばですね。
 やはり五十日間も四十九日も言うならば死んだことさえ、自分が亡くなっておることさえ気づかんでん、いうなら迷うたり、ね。または、どっちつかずの修行をしなきゃならんのでしょうけれども、私共がいよいよ霊の清まりを合楽理念をもってさせて頂いとるのですから、その続きなんです、ね。そこでハッと息の根は止まったけれども次の瞬間には動いとるです。私はこれを頂いてから本当に素晴らしい表現で、私のようなドンな者でもわからせて頂く。成程そうだな、と。してみると、も、亡くなったあくる日であっても、例えばここでならそういう大きな霊祭がある時には、もうそれには次の瞬間には入れるような、言うなら合楽理念をもって生きてきた。合楽理念をもって霊の生活に入って行く、これはもうつながっているんだ、と。
 そこには新霊もなからなければ、生仏様もない、ということがわからせて頂いて、ま、昨日、御祈念を終わって、その事を、あちらからも御参拝になるでしょうから、やはり新たに入られた霊様としての玉串奉奠があるようにしなければいけないね、と言うて言うたことでした。
 皆さん本当に霊を清めることに、ね。それもただ我流で清めるのでなくて、はっきり合楽理念をもってしてあるのですから、教えてあるのですから合楽理念に基づいての、言うならば、いよいよ信心修行をさしてもらう。
 私共が信心をさせて頂く、それはやはり願いが芯でございます。様々な問題を、ね。願うと同時に、その願う、という事を同時にです、ね。合楽理念をもって、そのおかげの頂けれる器、おかげの受けられるおかげの受けものを作らせて頂く、ということに精進しなきゃならん、ということがわかるでしょ、ね。合楽理念をもって願う。合楽では合楽理念をしますと願う、ということは人間は、いえ私だん願わんでんお礼ばかり申し上げる、といったようなもんじゃなくて、願わずにおられん。私共は言うならば天地の親神様を親とするならば、私共は丁度這い這いが出来ておる。言うならば、ね。乳呑子みたいなものなんだ、だからもう親の膝に這いすがって行かずにおれない。それが願い、願わずにおられない。そして、なら教えられることは、どういうことか、と言うと我情我欲をはなれて真の道を知れよ、わかれよ、と説いてあるのです。この辺のところを私は或るところから頂いたんですけども、はぁ、私がおかげ頂くのは、こういうところだな、と思ったんです、ね。
 すがらずにおられんから、も願わずにおられんから願うね。親神様としての実感が、も強くなれば強くなるほど願わずにおられない。か、と言うて願ったら、その瞬間にはもうママよ、という腹です。
 下さるが、下さるまいが、それはもう、あなたまかせ、と言うのです。言うなら、それは我情で願い、我欲で願ってもです、ね。私共何もわからん、乳呑子だから願ってもよい、すがってもよいのです。
 願わずには、またおれんのです。けども次の瞬間にはです、ね。言うならばママよ、という心である、ということです。だから次のおかげが頂けるんだな、と言うことです。
どうでしょうか、ね。例へばこうやって、ね。願う。それを手に持ったまま、これじゃ願うおかげが受けられんのは、こげんしとるから(手をにぎりしめて)おかげが頂けるのですよ。はなさないから。
 いやそれでも、おかげ頂いとります、と言うのは、そりゃ本当に頂いとるのじゃない。それは取次者の言うなら金光大神のお徳で、それこそ願う氏子におかげをさずけ、とおっしゃる、おかげなんです、ね。理解申して聞かせ、と、その理解を頂いてから、そして頂くおかげでなからなければ、力にも徳にもなりゃしません、ね。そこで、んなら合楽理念では徹底、我情我欲をはなれて、と言うふうに説くわけです、ね。我情で我欲で、例えばお願いをいたしましても、その次の瞬間にはそれをはなして、言うならどうでもよいという心なんです。
 もうそれから先、神様が下さろうが下さるまいが、もうね。それをいつまっでん、こうやってにぎりしめておる、と言うと私は自分自身、そこのおかげを頂いておって、こういう説き方、こういう教えは、今までしなかったように思うです。
 皆さん、今日の御理解頂いてですね。願い続ける、ということはね。願い続ける、ということは一生懸命願っておる時は願い続けるけども、その次の瞬間にはもうあなたにおまかせします、というものでなからなきゃいかんです。放しとくです。だから次のおかげがポッとにぎれるわけです、ね。合楽理念ではそう説くのですか、ね。そういうおかげを頂きながらです。おかげの頂けれる器、おかげの受けられる受けものを作るための修行なんです。合楽理念はすべて、ね。しかもそれは、この世だけではない、あの世までもそのまま続いていく程しの受け物作りなんです、という事を、私の霊(たましい)がそれを信じ、それを思い込んでおるのですから、もう止まる、ということがない。よし止まってもです。
息の根が止まってもです。もう次の瞬間にはもう動き出しとる。そして動き出しとる霊は、やはり霊の世界に入っても我心が神に向うのを信心として、ね。この、いわば生神をめざしての精進が もうその瞬間から出来ていく、という事なんです。
成程合楽の霊様達は、ね。たとえ新霊であろうが生仏であろうが、ね。合楽理念をもってする。右、左を完璧に足ろうた理念をもってするならばね。そういう新霊的な敬遠とでも、申しましょうか、ね。
また新霊様自身としても、大体はそうした修行をしなければならなかったんです。今迄の信心宗教では。けれども私共は、もうこの世あの世を通して続けてもっていける、その心の状態というものは、合楽理念によって勉強させて頂いておるのですから、ね。成程これは網さんの奥さんの事だけではない。誰もがそういう、ね。合楽理念を頂いて合楽理念をもってして、それを出来る出来ないは別としてです、ね。やはりあれが一つの学問と同じですから、頭のよか人もあれば悪か人もあるわけですけれども、ね。
合楽理念をもって百姓をする外はない。商売は合楽理念をもってする外はない、といったような思い込みをもって、それに一歩づつでも、それのおかげを頂いていこうとする精進。そういう修行がです、ね。一生続けられるので、なからなければなりません。一生が修行じゃ、とおっしゃる、ね。学者が眼鏡をかけてもやはり。んなら外の修行じゃない。只、勉強、勉強、学徳が身についていく事を楽しみに、言うなら勉強するように。私共も神徳が身についていく事を楽しみに合楽理念に基づいて、勉強していかなきゃならない。そして、その勉強はもう息の根が止まった、その次の瞬間からまたはじめられていかなければならない、ということです。
今日はね、皆さんのかかわりあいのある、霊という霊が全部、言うならば助かりを求めて、お参りをしてくるんです。ま、お参りをしてくる、と言うか、今日のお祭りを受けようとするわけです。
しかも夕べその姿勢、構えを説いてございかすからそういう姿勢、構えをもって、言うならば子孫の者、私共に向かってくるでしょう。それに私共がボンヤリしておるような事では、せっかくの交流がなりません、ね。お祭りを受ける者、奉仕させて頂く者。それに真心の限りを尽くさせて頂く者、そういうものが一貫した働きとなって、ね。言うなら私も助かり、ね。霊様も助かって下さる、神様も喜んで下さる、というようなお祭りにならなきゃならん、と思いますね。              「どうぞ」